秦の始皇帝が諸国を制して統一を成し遂げた後、滅ぼされた周辺諸国が既に造っていた長城を繋げて万里の長城とした。但しその長さに関しては”白髪三千条”などに例えられるように、某国特有の誇張ともされてきた。この長城の長さが本当に10000里有るのかと言う疑問は、最近意外な結論に達している。昔の1里は、4Kmではなく約1.4Km程だったこと、長城は1本だけが長く伸びているのではなく複数本が並行して造られ、時代によって更に囲みが増えているので、その総延長は20000Km以上にもなり「10000里=万里」は嘘では無いとの説が一般的になっているのだ。


慕天峡長城 

 昔も今も某国の為政者は、自分の支配地域をレンガや何らかの物理的規制で囲みこむ事が大好きであったが、この長城ほど見かけほどに役に立たない無用の長物も珍しい。多分目に見える国境線として、また国力の象徴として外部を威嚇することはできただろうが、敵が本気になって攻めれば、幾らでも越えられる防護壁である。可哀そうなのは、徴用された農民たちとレンガを焼く為に木々を切り落とされすっかり禿山になった山々である。この後遺症は今でも残っているのである。

膨大な時間と労力を使って、驚くような険しい峰にも長城は建設されたが、この防護柵が北方の異民族をまともに防いだ事実は何処にもないらしい。北方民族側も馬で一飛びに長城を超えた等と武勇伝に残すぐらいで(もちろん嘘だが)、彼らにとっても然したる障害にはならなかったものである。明の三代皇帝、永楽帝時代(1400年頃)に造られた比較的新しい長城でも、現在修復されていない部分は長年の風雨で殆ど崩れているから、長城2000年の歴史で造っては壊れ、造っては壊れで各地に綻びが生じていたはずであり、そうした綻びから進入できる場所も多々あったと考えられる。

 今、我々が観光で目にする万里の長城(以下 長城と略す)は、ほぼ明の時代に造られた長城を修復したもの。始皇帝時代の城壁の外側に新規建設したものだそうだ。私も赴任当初、土日の休暇を使って各地の長城を歩いてみるのが好きで、有名所は殆ど行ってみた。海外からの旅行者が3泊4日ぐらいの某国首都旅行では、“八達嶺長城”という市の北部にあり 高速道路1本で行ける長城が手軽であり、この長城が観光の代名詞になっている。只、観光向けに周辺が開発され過ぎて情緒も何もない。お奨めは「司馬台長城」と「金山嶺長城」である。完全に修復されていない部分もあるが、それだけに昔ながらの風情が残り、周辺には農家しかないので人気も少なく、大昔の世界に居るような雰囲気に浸れる。


氵向水湖長城

 長城は、山の尾根にあたる見晴らしの良い場所毎に屋根の付いた櫓がある。昔は此処に食料や武器を収納、兵士が寝泊まりして周辺の監視する為の拠点であった。国力が充実している時期は良いかもしれないが、これだけ長大な構造物の全ての櫓に均等に兵士を配置したり、食料を常備する「維持費」の方が大変だった筈である。恐らく国の財政が厳しい時期は、重要な関所に兵士を集中させ、全てに兵士を置くことは難しかったのでないだろうか。また、南進を試みる北方民族の方も 兵力を集中して1か所を攻めれば、長城を壊して抜けることなど容易くできたはずだ。○○長城の攻防戦などと言う逸話は、明代末期の山海関攻防以外聞いたことが無い。攻防戦をしようにも防衛線が長すぎてその前に進入を許してしまう。

某国の長い歴史では、多くの王朝が長城での防衛を放棄していることから、こんなものが役に立たない事を承知し無駄金を掛けない皇帝や武将を有していた時代もあるのだ。ところが漢族の王朝になると、またまた長城の有効性が見直され? 長城建設に邁進する等の繰り返しで、何故こうも為政者は歴史を学ばないのだろうかと思ってしまう。

最近の歴史論説では、長城の建設は防衛だけが目的ではなく、経済促進を目的とした公共投資のような意味合いもあったのではないかという論もあり、将来は「防衛の為に造られた」という従来の解釈に対し、異なった見解が注目されるかもしれない。

清朝末期から国乱れて100年、明朝以来漸く漢族の国として全国統一となった毛沢東の共産国家、しかし今の時代に遊牧民族の脅威は存在しない。新たな脅威は、馬ではなく戦車に乗ってやってくるのであろうが それは蒙古でもない。 何故なら、強いモンゴル帝国はとっくに歴史から消えている。昔の遊牧民の広大な領土は“内蒙古自治区”として一部民族と一緒に某国内に取り込んでしまっており、国境の北「モンゴル人民共和国」は、面積は広いが僅か数百万の人口しかない小国であるからだ。

某国にとりずっと獅子身中の虫であったロシアは、ソ連時代には一時最悪の関係となり、膨大な数の高速戦車群に国境を侵さる恐怖をずっと抱き続けていたが、ソ連崩壊後はたちまち経済力の低下と共に脅威度が低下し、またロシア自身の人口も減少しており、今や某国よりむしろロシアの方が経済的人的進入に対し脅威を感じている。よってロシアは政治的経済的に手なずけておけば、暫くは脅威として復活する存在ではない。それより、昔から北方民族と共に手を焼いて来た“倭寇”即ち日本国の方が、よっぽど言うことは聞かないし、思ったようにならないしで気に掛るのである。

毛が創った共産国家は、世襲の無い王朝と考えれば良い(毛は世襲制としたかったようだが・・)。新しい帝国は、万里の長城など造らずとも地図上に国境線を引けば、それで御終いである。隣接する他国に対しては、時々某国側から”プチ侵入”を繰り返して故意に刺激を起こすことにより、相手を牽制すると共に強固な国内での防衛意識を堅持することができる。嘘で固めたプロパガンダを繰返し国内世論を誘導して、関心や不満を国外に向ければ一先ずは安泰である。民衆も習皇帝とその支配勢力にさえ楯突かなければ、安定と繁栄を保障される。経済が繁栄していれば腐敗が無くならなくとも革命にはならない。

二十一世紀の現在、漢族の皇帝となった習近平君は、北方の憂いが無い分、南の海に集中できる。それで南海の人口小島を長城にしようと、ミサイルや軍用機を並べ始めているが、北方の長城と同じで、いざ実戦になったら役には立たない。日本の絶対国防圏でマキン・タラワ等諸島の防衛線が各個撃破された事を、某国中央テレビは歴史番組で面白おかしく紹介しているだろ・・

昔は長城で守られた某国首都は、今でもあらゆる意味で安定が必要な街である。国の重要な決定も嘘っぱちなプロパガンダも全て此処で作られ発信される。だからこの場所が乱れる事は、即ち国の崩壊に繋がると考え、治安を一番強化してきた。民警の人数も他の大都市が 市民10000人に対し15名なの対し、首都は30名も配備している。

国が発展し高速鉄道や高速道路網の整備が進めば、首都を中心にあらゆる方角に路線が伸びていく。逆に首都から見れば、あらゆる方角から大量の人や物資が、今まで以上のスピードで流れ込んでくる訳である。この中には、某国政府が恐れる不穏分子が混じっている可能性だっているのだ。そこで 政府が設けたのが 高速道路網の首都入口に関所を作る事だった。ここで 首都ナンバー以外の車は、車検証や身分証、車両環境適合証などの提示を求め 通行証を発行する。この通行証は、1週間の有効期間しかなく 更新手続きはもっと面倒である。すなわち 短期の首都内通行以外外来車の往来は規制したいのである。

大型トラックに対する規制はもっと厳しい。首都を大きく囲む第六環状道路の円の中には午前0時までは入れない。朝は、6時過ぎたら走行できないので6時間でこのエリアから脱出するしかない。その為大量の物流を扱う会社は、第六環状道路の外側に物流拠点を設けて此処で小型車に積み替え配送している。

  
高速道の関所・・・長い時間かかってやっと通行証をもらったら 次にここのゲートで身分証明書が本物かチェックされる。警官だけでなく自動小銃を構えた武装警察が立っているのだ。

 そんなこんなで土日に首都にちょっと買い物と行っても、関所での手続きに長い時間が掛かり大変なのだ。首都を出る時はフリーパスだから、首都住民以外は差別を受けているような錯覚に陥る。日本に例えれば、埼玉県人が所沢ナンバーの車で東京に入る時、県境の検査所で“免許書 車検証 住民票 車両環境基準適応証”が無いと東京都内の通行証がもらえないと言う事である。でも練馬ナンバーなど東京のナンバーであれば他県の何処に行くのも自由!ちょっと理解し辛いかもしれないが、これが某国の現実なのだ。

 一度、首都から郊外に出る時に自動車で非常に山奥の山道を使った事があった。こんな道には関所は無いだろうと思っていたが、何と!しっかりとこの山道にも関所はあったのだ。聞いてみると、田舎の農道にもチェックポイントが有るらしい。首都はこうしたチェックポイントにより、見えない城壁を作って”現代版長城”として首都を囲んでいるのである。

                                     (2016330日記)

其の二十   万里の長城が守る首都 
ボクの某国論
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